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岡本太郎氏に学ぼう(
1)〈最大の敵は他人ではなく自分自身〉

200723

宇佐美 保

本屋さんに行くと、悲しい事に、今以って、安倍晋三著『美しい国へ』が、目立つ所におかれています。

この本を読むと、我が首相の心の貧困さに驚かされ落胆し、安倍氏の主張に反論する気力さえも失せてしまいます。

ですから、この本も、安倍首相も早々と退場して頂きたいと、常々念じているのです。

 

 ところが、1996年惜しくもこの世を去られた岡本太郎氏の著作『自分の中に毒を持て「あなたは“常識人間”を捨てられるか」(発行:叶ツ春出版社)』の中には、岡本氏の剛毅な精神と示唆に富む言葉などが溢れています。

 

 岡本太郎氏の名を聞くと、1970年に開催された大阪万博では、「太陽の塔」をぶったてた事と、“芸術は爆発だ!”の言葉などを思い浮かべます。

 

 しかし、この本を読むと岡本氏が“芸術は爆発だ!”と喚き散らす単に変ったオジサンだけでなく、更なる偉大さが伝わって来て、私も何とか岡本氏の境地に近づけたらとの想いが強くなります。

(“自分だって負けないぞ!”と、こっそり思いつつも。)

 

ですから、私が色々くどくどと書いたものをお読み頂くより、岡本太郎氏のこの著作をお読み頂く方が有益であろうと感じました。

でも、一冊読むのも大変かと存じその一部をここに抜粋させて頂きました。

(しかしながら、岡本太郎氏は沢山の書物を読まれております。)

 

 ぼくも子供時代からあらゆる本を濫読した。童話や、グリム、アンデルセン、アラビアンナイト、ガリヴァー、西遊記などは勿論、母が感激して読んでいるものはどうしても読みたくなって、モーパッサンやトルストイ、ツルゲーネフなど小学校の高学年のときには夢中になって読んだ。

 中学に入るか入らないかの頃、ショーペンハウエルにとりつかれ、学校の授業中でも、前の席の子の背中に隠れて読みふけったのを覚えている。はじめての哲学書だったけれど、とてもよく解ったし、面白くて、ちっとも難しいとは思わなかった。

天才論とか、因果論など、うむ、その通りその通りといちいちうなずきながら読んだ。天才は憂うつと昂揚が周期的に激しく襲ってくるとか、大てい背が低く、猪首だなんてところまで自分にそっくりで、うむ、やっぱりぼくは天才なんだな、とひそかにうなずいたりした。

 パリに行ってからは、フランス語に馴れる意味もあって、まず小説にとり組んだスタンダールの『赤と黒』が最初に読んだ本だ。『パルムの僧院』なども面白くて、徹夜して一気に読んでしまった。またアンドレ・マルローの『人間の条件』が出版され、評判をよんだ。アトリエからモンパルナッスのキャフェなんかに出て行く途中も、とぎれるのが惜しくて、この本を読みながら道を歩いて行ったのを思い出す。

 哲学書ではニーチェ、キュルケゴール、ヤスパースなど、実存哲学に熱中した

当時はまだサルトルはあらわれていなかったし、実存主義という言葉はなかったがわれわれ若い仲間の間では「実存的存在」という言葉が強い連帯の絆になっていたようだ。

不思議なもので、自分が求めているときは、それにこたえてくれるものが自然にわかるものだ。それにはかなりたくさん読まなくちゃいけない。

 

 ぼくはパリ時代は昼も夜も、ほとんど毎日、キャフェへ出かけていった

−杯のコーヒーで何時間ねばっていてもいい。そういう店でコーヒーを飲んでいると、必ず、誰か友達がやってくる。

すると、お互いに「やあ」「やあ」と挨拶して話し合ったり、議論したりした。

歳そこそこで、若かったが、そのキャフェで世界の歴史に残るような思想家や芸術家と毎日のように出会い、対等に話し合った。それがぼくの青春時代の大きな糧になったことは確かだ

 マックス・エルンストやジャコメッティ、マン・レイ、アンリ・ミショーなどシュール系の画家や詩人、ソルボンヌの俊鋭な哲学徒だったアトラン、後に芸術批評の大家になったパトリック・ワルドベルグや、写真家のブラッサイなんかもモンパルナッスの「ル・ドーム」や「クーポール」で毎日顔をあわせる仲間だったし、カンディンスキー、モンドリアン、ドローネーなどと一週間おきに集まって、芸術論をたたかわせたのも、「クローズリー・デ・リラ」というキャフェだった。

 十年以上のフランス生活はほんとうにキャフェとともにあったわけで、いちいち思い出を話すことはとても出来ない。

 ぼくの一生を決定したともいえるジョルジュ・バタイユとの出会いも、考えてみればキャフェがきっかけだった。・・・・・・

 

 更には、

 

 ぼくは十八歳でパリへ行って、パリの郊外のショアジー・ル・ロアにある、パンシオン・フランショという学校の寄宿生になった。そこで、フランスの若者たちと一緒に暮し、数学や歴史の勉強から、詩の朗読、音楽の合唱なんかまで、普通のフランス人の一般的な教養を身につけたわけだ。一ぺんに日本的なちっぽけなモラルから解放された。

 

 そして次のようにして、“芸術は爆発だ!”の境地に至ったのです。

 

 十八歳でパリに渡った。その頃の日本とはまるで違う、ヨーロッパ社会の巨大で壮麗な厚み。目もくらむほど惹きつけられる。だが同時にそれは圧倒的な非情な壁として、若い私の前に立ちふさがった。

 生活感そのものがまるで違うのだ。私は画家を志していたのだが、印象派やエコール・ド・パリといった、西欧文化の土壌の上に花ひらいたその様式をそのまま受け入れて、コピーすることの無意味さ、そらぞらしさに耐えられなかった。

 ほとんど絵筆を投げ捨ててソルボンヌ大学に通い、哲学、社会学、それに最後は民族学に没頭して、社会対個の問題、避けて通ることの出来ない自分の疑問や悩みは徹底的につきつめてみようとした。緊張した、白熱の知的交流もあった

 ソルボンヌの生活はそれなりに充実して、ぼくにとって忘れ難い貴重な経験だった。が、自対他。いったい自分は何なのか。幼い頃から抱きつづけてきた絶対にゆずりわたすことの出来ないアイデンティティーを、どうこの世界に押し出していったらいいのか。一番根本の悩みはそう簡単に答えを見出すことは出来なかった。

 思いつめ、息苦しさをまぎらそうとして映画館に入ったこともある。いまでもまざまざとその感覚がよみがえってくるが、暗い中でじいっと座席に身を沈めた。スクリーンに明滅するさまざまな映像。ぼくはそんなドラマを目を伏せてしりぞけた。

胸をおさえて、自分の身のうち奥深いところに無言で燃えている炎だけを見すえ、抱きしめた。

 ある時、パッと目の前がひらけた。

……そうだ。おれは神聖な火炎を大事にして、まもろうとしている。大事にするから、弱くなってしまうのだ己自身と闘え。自分自身を突きとばせばいいのだ

 炎はその瞬間に燃えあがり、あとは無。−爆発するんだ。

 自分を認めさせようとか、この社会のなかで自分がどういう役割を果たせるんだろうとか、いろいろ状況を考えたり、成果を計算したり、そういうことで自分を貫こうとしても、無意味な袋小路に入ってしまう。

 いま、この瞬間。まったく無目的で、無償で、生命力と情熱のありったけ、全存在で爆発する。それがすべてだ

 そうふっきれたとき、ぼくは意外にも自由になり、自分自身に手ごたえを覚えた。

 勿論、生活の上で、芸術活動の上で、さまざまな難問や危機は次々と押しよせてくる。しかし恐れることはない。

 

 

 如何でしょうか?

小泉前首相の経歴は、首相官邸のホームページを訪ねますと

1967年慶応義塾大学経済学部卒業ロンドン大学留学」

とありますが、ロンドン大学で何をしてこられたのでしょうか?


安倍晋三現首相は、如何でしょうか?氏のホームページのプロフィールには、

1977年(昭52年)3月 成蹊大学法学部政治学科卒業。

1979年(昭54年)4月 株式会社神戸製鋼所入社

と書かれています。

しかし、1977年から1979年の間の2年間は、何をされておられたかは書かれていません。

でも、以前(某代議士の経歴詐称事件前)は、その2年間は、米国の南カリフォルニア大学に留学(遊学でしたかしら)とか書かれていたと記憶しています、一体その2年間はどうなったのでしょうか?

 

 そこで、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「学歴詐称」のページを見ますと、次のように書かれていました。


安倍晋三
成蹊大学を卒業後、南カリフォルニア大学政治学科2年間留学を自称するが、
実際は“政治学専攻”で未卒業。
しかも単位を取得した
6コースのうち3コースは外国人のための英語講座で政治学の単位ではなかった。



小泉純一郎
ロンドン大学政経学部に2年間留学したと称して選挙に立候補。
しかしロンドン大学に政経学部は存在しない。
小泉は英語ができないためロンドン大学の試験に合格できなかった。
そのため誰でも入れ、単位も存在しない外国人向けの講座に半年在籍していただけであった。


 更に、小泉氏の留学の件では、岩崎大輔著『ダークサイド・オブ・小泉純一郎(発行:蒲m泉社)』には次のような記述があります。

 

・・・その後レイプ疑惑という形で再燃してきたのだ。しかも今度は国会の場においてであった。冒頭に記した、二〇〇四年六月一〇日の特別委員会の席上における民主党の斎藤つよし参議院議員の質問がそれである。

五月六日、東京地裁民事第一八部で審理された、原告の木村愛二が被告に小泉を据えて起こした損害賠償請求訴訟を指してのものだ。

 木村の言い分を要約しょう。

小泉が慶應大学の四年生であったとき、婦女暴行事件を起こして神奈川県警に逮捕された。場所は湘南であり、相手は慶應大学の女学生であった。当時、防衛庁長官であった父親の純也が政治的圧力を使い、この事件をもみ消したが、学内で噂の広まるのを恐れ、急速一九六七年五月、ロンドンに留学という口実で日本から身を隠した。そのような記事がミニコミを中心としたマスコミに出回っている。私はその記事が事実であると思う。それにもかかわらず、小泉は首相官邸などにある自身の刑罰の欄に何も記していないのはなぜか。

 

 そうして、次のように書かれています。

 

 

私は暴行を受けたであろう女性の家の前で行ったり来たりを繰り返していた。手紙を書き、見本誌を送るなどして、迷惑のかからない形で接触を試みた。しかし結局のところ、彼女と直接話せたのはただの一度っきりとなった。

 その日、担当編集者の片山勇人と赤石と私は、小綺麗な玄関先で直立不動の姿勢を保っていた。

横須賀で何度も聞き込みをしていたせいか、彼女は招かざる客の来訪を予期していたようだった。

小泉と同じ歳の彼女は背筋を伸ばし、はっきりした口調でこういった。

どうやって(私の家の)住所がわかったのかしら

 不愉快を絵に描いたような表情だった。もちろん答えることはできない。

ジュンイチロウのことで来たんでしょ

 玄関口に佇立した彼女は腰に手を添えながら、問わず語りにそういった。射抜くような怜悧な眼差しでにらみながら、こう告げた。

何度脚を運ばれても話すことはないですから

 

 そして、又、2004614日、民主党の平野貞夫氏の追及に対する、次のような例の小泉流の答弁が記載されています。

 

 

 私はもし過去に逮捕されていたら、いかなる事案についてもですよ、連続当選なんかできるはずがありません。名誉毀損といいますか、誹誘中傷は今でもしょっちゅうですよ。これにいちいち対応しょうとしていたら無理です。これはもう有名税と思ってあきらめるしかない、耐えていくしかないと思うんです。どちらを信じるかであります。そういうでたらめな言う方のことを信じるか、私の日頃の行動を信じてくれるか、それに待つしかないと思っております

 

 下種の私は、小泉氏の日頃の行動からして、小泉氏を信じる事は出来ないのですが?

 

 

 それにしましても、岡本太郎氏のパリでの生活は、このお二人の外国時代とは雲泥の差があります。

安倍氏も、小泉氏も外国留学(まがりなりにも?)したのなら、交友関係とか物の見方なり、それなりの収穫があったはずです。

それらは彼らの政治にどのように生かされていると言うのでしょうか?

 

 

 安部、小泉両氏の件は又にして、岡本太郎氏の著作の冒頭部を抜粋させて頂きます。

 

人生は積み重ねだと誰でも思っているようだぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。

過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。

 人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身とも無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。

 今までの自分なんか、蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。

 ふつう自分に忠実だなんていう人に限って、自分を大事にして、自分を破ろうとしない。社会的な状況や世間体を考えて自分を守ろうとする。

 それでは駄目だ。社会的状況や世間体とも闘う。アンチである、と同時に自分に対しても闘わなければならない。これはむずかしい。きつい。社会では否定されるだろう。だが、そういうほんとうの生き方を生きることが人生の筋だ。

 自分に忠実に生きたいなんて考えるのは、むしろいけない。そんな生き方は安易で、甘えがある。ほんとうに生きていくためには自分自身と闘わなければだめだ。

 自分らしくある必要はない。むしろ、人間らしく″生きる道を考えてほしい

忠実≠ニいう言葉の意味を考えたことがあるだろうか。忠実の忠″とは(まめやか、まごころを尽くす)ということだ。自分に対してまごころを尽くすというのは、自分にきびしく、残酷に挑むことだ。

 ところが、とにかく忠君愛国の忠のように、主君はたとえ間違っていても主君である以上それに殉ずるとか、義理だの、仇討ちだの、狭い、盲目的な忠誠心ととられることが多い。

 だからぼくは、忠実なんて言葉はあまり使ってもらいたくない。

実″にしたって、なにが実であるか、なんてことは抽象的で誰にもわかるもんじゃない。意識する実″はほんとうの意味での実″じゃない。

実″というのはそういう型にはめた意識を超えて、運命に己を賭けることなんだ。

 自分に忠実と称して狭い枠のなかに自分を守って、カッコよく生きようとするのは自分自身に甘えているにすぎない

 それは人生に甘えることでもある。もしそんなふうにカッコウにとらわれそうになったら、自分を叩きつぶしてやる。そうすれば逆に自分が猛烈にひらけ、モリモリ生きていける。

 つまり自分自身の最大の敵は他人ではなく自分自身というわけだ。自分をとりまく状況に甘えて自分をごまかしてしまう、そういう誘惑はしょっちゅうある。だから自分をつっぱなして自分と闘えば、逆にほんとうの意味での生き方ができる。

 誰だって、つい周囲の状況に甘えて生きていくほうが楽だから、きびしさを避けて楽なほうの生き方をしようとする。

 ほんとうの人生を歩むかどうかの境目はこのときなのだ。

 安易な生き方をしたいときは、そんな自分を敵だと思って闘うんだ

 たとえ、結果が思うようにいかなくたっていい。結果が悪くても、自分は筋をつらぬいたんだと思えば、これほど爽やかなことはない。

 人生というのはそういうきびしさをもって生きるからこそ面白いんだ。

 

 ここに書かれた岡本太郎氏の“自分らしくある必要はない。むしろ、人間らしく″生きる道を考えてほしい。”そして、“安易な生き方をしたいときは、そんな自分を敵だと思って闘うんだ。”の言葉が大好きです。

ところが、

我が国の現首相は、自らを“闘う政治家”と称して、自分と闘うのではなく、
自分を非難する人に闘いを挑んでいます。

そして、自分(身内)には大変甘いのです。閣僚達がどんなにテイタラクでも、彼らをかばい続けるのです。

 

 私は“人生は積み重ねだと誰でも思っているようだぼくは逆に、積みへらすべきだと思う”との言葉は、人間一個人の人生に留まらず、国の人生、即ち歴史にも当て嵌まると感じるのです。

 

 藤原正彦氏の大ベストセラー『国家の品格(新潮新書)』(ここでの藤原氏の見解には、全く賛同できない為、《国家の品格について(1》などで反論を掲げさせて頂いております)には、次のように「日本国」の素晴らしさを記述しています。

 

例えば五世紀から十五世紀までの中世を見てみましょう。アメリカは歴史の舞台に存在しないに等しい。ヨーロッパも小さな土地を巡って王侯間の抗争が続いており、無知と貧困と戦いに彩られていました。「蛮族」の集まりであったわけです。

一方、日本は当時すでに、十分に洗練された文化を持っていました。文化的洗練度の指標たる文学を見ても、万葉集、古今集、枕草子、源氏物語、新古今集、方丈記、徒然草……と切りがありません。この十世紀間における文学作品を比べてみると、全ヨーロッパが生んだ文学作品より日本一国が生んだ文学作品の方が質および量の両面で上、と私は思います

 当時のヨーロッパは、その程度のものでした。よほどの文学好きでない限り、五世紀から十五世紀までのヨーロッパの生んだ文学作品を三つ挙げられる人は少ないのではないでしょうか。

 英文学も今では威張っていますが、有史以来一五〇〇年までの間にどんな作品が生まれたか。『カンタベリー物語』ぐらいしか頭に浮かばないでしょう。

 

 確かに、「万葉集、古今集、枕草子、源氏物語、新古今集、方丈記、徒然草……」は素晴らしい作品でしょう。

でも、その作者達と今の私達がどのような関係があるのでしょうか?

彼らがその作品を仕上げる事が出来るようにサポートしたと言うのでしょうか?

彼らの業績に対しては、私達は全く寄与していません!

なのに彼らの業績を背景に「日本国自慢」を他国にするのは虫が良すぎます。

その上、最近の政治家は、家柄自慢(?)さえしている感があります。

過去は過去です!

それよりも、

彼ら先人の立派な業績に負けないような凌駕するような業績を
私達が成し遂げる為の発奮材料、目標とさせて頂くのが筋と存じます。

 

 

そして、又、これらの文学作品は、中国の影響なくしては存在していません。

少なくとも中国から「漢字」(平仮名だって漢字なくしては生まれていません)が入って来なかったら、これらの傑作群は残存していません。

(又、「紙」が中国から伝わってなかったら如何でしたでしょうか?)

 

 藤原氏を初め私達は、日本文化の源流に於いて近隣諸国(中国韓国など)から多くの恩恵を受けている事を忘れ過ぎてはいませんか?

 

 勿論、戦後の産業等の復興発展に関しては、米国(米国の真意はともあれ)の恩恵なくしては困難だったのではありませんか!?

 

 ですから、

私達日本人は、「美しい国」との思い上がった旗印を掲げる前に、
私達の大事な心、言葉である“お陰さま”を旗印にすべきと、私は思っております。

 

 但し、全て独力で独自の道を切り開いてゆかれた岡本太郎氏の本には、この“お陰さま”の言葉は出て来なかったようです。

 

 ところが、岡本太郎氏の“お陰”で、素晴らしい画家(現在は全く無名)の石山朔(86才)氏が、131日のNHKテレビ「首都圏ネットワーク」で紹介されていました。

新聞記者として某新聞社勤務されていた石山氏は、取材をきっかけに出会った岡本太郎氏の作風に感銘を受け1960年に画家へ転向されたそうです。

 そして、又、私も今後岡本太郎氏の”お陰”を大いに蒙らせて頂たいと念じております。

 

長くなりましたので、《岡本太郎氏に学ぼう(2》に続けさせて頂きます。

 

 

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